昭和五十七年一月二十五日 朝の御理解
x御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれそれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」
今度寒修行が終わりましたら、いわゆる寒修行あけに、え~京都の太秦教会の教会長、先代の教学所の所長でもおありになったという、大変御立派な先生にお話に来て頂く事になりました。渕上先生の、ま、口利きでございましたが、講題を、お話のいわゆる題を〈教えを越えて、教えに生きる〉という教え、教えを越えて教えに生きる、なかなかこう教学者らしい、こう講題ですね。で、私これを聞かせて頂いてから、その、内田という、内田っていう先生ですかね、先生は確かに合楽の勉強もやっぱ少しなさっておられたじゃなかろうか、と思った事でございましたが、合楽では例えて申しますと、いうならば教えを越えておる、というわけではないですけれども、いよいよその、教えを十全に、え~現そうとする働きがいっぱい感じられます。いうなら昨日のお産に対する三つの御神訓を聞いて頂いたんですけども、決してあれが、え~懐妊とかに、その出産とかという事に限らないと。それを、おかげを頂いて行く上には、一切の事にもそれがあてはまるという意味の事でしたからね。お産の為の教訓、教えだけではなくて、ま、いうなら教えを越えたものではないでしょうか。これは合楽で、いうなら三十年間説き続けられて来ておる、その御教えが一日たりとも同じじゃない、という事からだけでも確かにその、教えを越えたものである。今までこの御教えからそういうま、ヒントとかおかげの頂けれるふうに説かれてなかった所が、こう説き明かされていっておる。それがまあ、いうならば合楽理念ともなって来たわけでありますが、今日の、例えば御理解を頂きましても、人の心を傷つけたり殺したり、といった様な事がお道の信心、教えを頂いておって、あってよかろうはずがありませんよね。ですから、ではなくてむしろ反対に、人に喜びがあたえられる、ね、人が例えば暗い心をしておられても、その人にあっただけで心が明るうなる、殺すどころか相手を生かして行け、という事だけに、私は、あの焦点を置くという事はね、ま、いうならば教えを越えた頂き方であろうと思うし、ま、え~、よく言われますよね、え~、先取りという言葉が使われますよね。教えの先取り。人の心を暗くする様な、傷つけたり殺したりする様な事は勿論、信心させて頂く者としてはあってよかろうはずがない。だから反対に生かして行くね、又は、傷ついておられるなら、それを癒してあげれる様な内容ね、それには、なら、私自身が、ね、内容としていよいよ信心の喜びを味わっておらなければ、内容が出てくるのですからね。心でこんな奴が、と思うとってから、こう形だけむごう言うという様な事ではやっぱいけません。心から、いうなら何て言うでしょうかね、有難いという心が、それが何とはなしに態度とか形にも現れて来る様なおかげを頂きたい。為には自分自身の心の中に、いよいよ喜びが、いうならば一年一年有り難うなって行く、という手立てね、それこそ一年一年位がつくのじゃと仰せられる、これが位というものであろうか、と自分で感じられる様な生き方を、いよいよ身につけなければならんという事になります。
昨日は上滝さん所の恒例の宅祭でございましたが、本当に、まあ素晴らしい有難いお祭りでございました。一年再々、え~まあ、有難い事になって行くわけですけども、ま、本当の意味あいにおいてであります。あちらの御神前も、ま、向かいに、一つの花開くという石井光次郎さんの書かれた額が掛っとります。一つの花開く、本当に信心の花がこう、何十年の信心をしておられるけれども、今年初めてそれが開くという事になり、それが一つの実りともなって行く様なおかげを頂かれる様な事であろうと思われる様なお祭りでした。どうでもひとつ皆さん花も開かなきゃでけません。折角信心させて頂いておるのですから、しかも、それが徒花で終わらずにね、本当に結実、いわゆる実になって、いうならお徳になって行くという信心をさせて頂かなきゃならない、ね。去年は上滝さんの家にも様々な問題があった。まあいうなら難儀は難儀というか、又、いうならば本当に心が真っ暗になる様な思いをする様な事もあった。ところがそういう都度に、いうならば信心がものをいうて来た。いうならその都度に信心の力がついてきた。とても日参とか何とかという事を考えなさる様な人じゃなかったです。上滝さんいう人は、もう日参やらされる人の気持ちがわからんち言うくらいな、兎角、教えさえ守って行きゃあよいといった様な生き方の人でした。それがどうですか、私が手、足の続く限りね、朝参り、本当に昨日あちらのお母さんが九十いくつになられますがね、あのう、ミチヱといわれますが、「ミチヱがもう本当にどうしてこげな有難い朝参りを早く始めじゃったじゃろうかと言うております。もう、朝のご飯なんか食べんでんよかといった様な弱い身体が、もう兎に角、お食事はおいしゅう頂けるだけではなくて、いわゆる健康になっておかげを頂いておる」と言うてお婆ちゃんが喜んでおられましたが、ね。その信心の目指しとするところ、昨日あちらでお話聞いて頂いた事でしたけれども、ね、「真の道も、信心の道も真の道も知らぬ人の哀れさ」という御教えがありますね。私は沢山の信奉者がありますけれども、本当に真の信心、真の信心の道というものも教えて頂いておっても、その道に出ていない人がどのくらいあるやわからない。一年一年有り難うなって行くというのに、年をとるにしたがって愚痴っぽくなったり、不平不足がでけてり、人の足もとだけが目につく様な、いうなら年のひらい方をしておる人がどのくらいおるかわからない。いうなら真の道も真の信心にも道にかのうた信心をしていないからだ、ただおかげを受けるからお参りをしておった、という人達が多いのじゃないだろうか。信心がなくて段々愚痴っぽくなって行くとか、ね、不平不足が多くなって行くなら、まあまあ仕方がないとしても、こう尊い有難い御教えを頂かしてもらい、信心に縁を頂きながらもし、一年一年有り難うなって行くどころか、一年一年不平不足が多くなって行く様な年寄りになったら、もう信心があるが故にひとしお悲しい事だ、淋しい事だというお話をさせてもろうた。してみると、見渡してみると沢山そういう人があるです。信心しておっても、はあ、若い時にはもう、おかげ頂かなん為にはもうそれこそ日参り、夜参りして水をかぶったり断食したりしてお願いをすりゃあおかげ頂きよったという人がです、年をとって来るとそういう修行はでけん事なる、ね、そいで若い時にはこげなふうでおかげ頂きよったばってん、になってしまいますのですから、ね。いうならば、寝とっても座っとっても真の信心の道にかのうて行くならば、有難なっていかんならん事出来とる、はあこれが位というものだろうか、と思う様に御神徳を感じさせて頂ける様な信心の、いうならば基本というものをね、土台をね、作ってからの信心でなからなきゃいけない。
今日、皆さんに聞いて頂く、例えば信心を頂いておってです、ね、人の心を傷つけたり殺したりする様な事が勿論あってはならない。そして、なら昨日から頂きます御理解、それこそ教えを越えて教えに生きる、という様な生き方の御教えを頂いておるのです。昨日の御理解を、ま、一口で言うと「たよりなき物をたよりにする故の、このたよりなき心なるかも」と。私はこうだったと思うんです。これは今の教主様のお詠なんです。たよりなき物をたよりにする故のね、このたよりなき心なるかも、である、ね。絶対のもの、たよりにならないものをたよりにせずに、です、いわゆる昨日の御理解でいうと、よかり物によかるより、というのがそれです、ね。金に頼る、物に頼る、人に頼る、果たしてそれが頼りになるかといやあ、もう自分の腕だけはとこう言う。その腕だって本当はね、頼りになるものじゃない。自分の息子だからというて頼りになるのじゃない。息子が早死にしたらどげんなるか、ね。だから頼りになるのは神様だけしかないです、と言うほどしに思われるだけの神様に、私共が頂き切っていかなきゃだめなんです。絶対だ!と、ね。そういう神様をいよいよ頂いていかなきゃならん、ね。
r昨日私は研修の時に、これは本当私も何十年ぶりに、ふっとその事を気づかせて頂いたんですけれども、皆さんもご存じでしょうが、私がまあ、人がぼちぼち助かり出したち、いう頃でした。もう様々な問題が沢山ありました。もう、人からもう本当に馬鹿の様に、それこそ乞食じゃろうか、泥棒じゃろうかと言われる様な事も言われてきました時代がございました。もう本当に、こげな事があるならもう本当に、信心してこんな思いをせんならんごったならという様な、いわゆる信心の悩みがあった時に、亡くなられました先代の三代金光様にお願いをさせて頂いた時に頂いた御教えが、「氏子が神様任せなら神様が氏子任せになる、と仰せられますから」という。皆さんも御承知でしよう、ね。確かにそうだと言いもし、思うても来たんですけれども、もし、あの御教えがです、○○先生、○○さんが、その同じおしえを私に教えて下さってもです、私があの時に感じた様におかげが頂けただろうか、三代金光様のお言葉であったからね、例え人から馬鹿と言われても阿呆と言われても、それこそ泥棒じゃ乞食じゃと言われる様な事があっても、いよいよ信心の帯をしっかりしていく事だけに焦点をおいていったんですね。
私、昨日研修の時に、うちの先生方に申しました事でしたけれどもね、これはもう取り次ぎ者たる者どうでもね、もう、うちの先生が言われるのだからと、安心が与えられる様な先生にならなつまらんばい、と私は申しました。私が言うておる事と同じ事を、皆さんが覚えて言うたに致しましてもです、ね、親先生が言われるなら、親先生が言われるからと、ま、信じて帰ると致しましょうか。なら、○○先生が同じ事を言うてもです、ね、それが頼りにならないものであっては値打ちはないでしょうが。私は昨日初めて、三代金光様のお取り次ぎを頂いておったという事、成程、三代金光様は合楽にとっては、いうなら、合楽の大恩人でおありになる事を、改めて、又感じた事でした。あれが他の先生、他の○○さんが同じ御教えを私に下さったに致しましても、私はそれを、あの時に私が感じた、頂いた様なふうに頂けなかったと思う。三代金光様であったからこそ、三代金光様がこう言うて下さるからと、もう兎に角神様だけが御承知の世界に生きぬこうという腹が決まったんです、ね。そしてこれが皆さんにも同じなんです、ね。皆さんの心の中に喜びがいよいよ、いわゆる神様を、いわゆる絶対信ね、頼り物にもならんものを頼るのじゃない。神様を杖につかせて頂くという事が、こんなにも心強い生き方がでけるんだと自分が頂いて、例えば、なら、子供が、又は家族の者が困った、心配というても心配しなさんなと、お取り次ぎ頂いてあるとじゃから、と言うたら家族の者が安心するくらいな信心を頂きたい。お母さんがああ言うけども、そんなわけにはいかん、結局言うておる、大丈夫とこう言うておる者の心の中に大丈夫がないからだとね。いよいよいうならば、昨日お祭りが下がってから、終わってから、上滝さん親子で私の部屋に挨拶に見えました。そして言われる事が、「結局、親先生、もう信心とは本心の玉を研く事ですね」とこう言われる。そうばいち、そん研く手立てがね、いうならばなされなければならない。
昨日、津矢崎教会の松村先生から電話がかかってきた。今朝方からお夢を頂きましたとね。それが、え~、野球選手に原なんとかという大変、も、高校時代から大変有名であった野球選手がおるでしょう、その人がこの、何か、何とかじゃったな、兎に角野球用語ですから、そん何か英語で言っておると、その意味がどういう事なのかって私が聞きましたら、それは、その選手を鍛える為に受ける稽古をね、させるという事だそうです、ね。その野球選手を鍛える為にある修行だそうです。(死のノック)受方ね。そいけん私「上滝さん、成程それどこじゃなかばい」ち「もう信心ちゃ、もう本心の玉を研く以外なかばい」なら、どういうふうにして研かれて行くか、豊かになるか、大きゅうなるかという事はですね、おかげを願うとか受けるという事もだけども、その受け物を作るという事。いうならばおかげの受け方だけではなくて、ね、日々起きて来る問題ね、それがいうならば、良い事ばかりじゃない、損になる様な事もあるかもしれない。痛い、恥ずかしいといった様な思いをする様な事があるかもしれない。けれども、その受方がね、受方が、も、それこそ鮮やかに、これをおかげになる様な、お徳になる様な受方をする稽古なんだ。私は今度合楽の、福引きのクジを引かせて頂いたら、主人、いわゆる津矢崎の先生ですよね、松村先生、私が頂いたのは「天の心」というのでございました。主人が頂きましたのがね。「頂きますという心あらば、あたる事ない」という御教えでした、ち。ほう、私が頂いとるととよう似とる。私が頂とるのは「頂きますという心」でした。だからこれは、私が一切の事をね、なら頂きます、という構えを作っておるから、これは私でなからなければ頂けない御教えだけども、あんたのは「頂きますという心あらばあたる事なし」といわれるのだから、今年はそれこそ有難く頂けば、あたる事があるかないか実証の年だと私は申しました。もう今年こそはね、どういう事であっても有難く頂きゃあ、こんなおかげになるという、その実証の年なんだと。本当にあたる事がないという事の実証する事なんだ。んなら、今日私が頂いた朝のお夢と、主人が頂いとる教えと、私が頂とる天の心というのが、この三つの関係がどういう関係にあるだろうかというのです、ね。天の心とは、もう限りなくいうならば美わしの心であり、美しい心であり無条件である。そういう美しゅうなる稽古ね、そういう稽古がなされなければ、心の中に汚いものが蠢いておる様な事ではおかげにならん。自分ながら我ながら我が心が拝めるというのは、自分ながらみとれる様な心の、が使える時なんだ、ね。為には今言うね、「頂きますという心あらばあたる事がない」本当に教祖の神様が教えておられる事が本当か嘘かという事を実証する為に、今年はいよいよ一切の事をね、頂く、いうなら受ける稽古。野球の選手がその、鍛える為に、その受ける稽古をさせるという事であるが、今年はもうそこにひとつ、いよいよ焦点をおいてね、夫婦の者が、そして今朝から頂とる、あんたのそのお夢とが、こう三つにそういう関連性を持っておるんだとして信心を進めて行かなければいけないね、と言うて、まあ申しました事です、ね。お互いのね、心の中に有難いと思うとります、じゃなくて本当に有難いと思える信心にならなければいけません。教祖の神様がまだお百姓の、をなさっておられる時代に、お二人のお子さんが一緒に疱瘡にかかられた。信心厚いお方ですから神仏にも願われた。あらゆる手当もなさったけれども、とうとう一人は亡くなられた。そん時に、その教祖様のなされておるという事はどういう事かというとね、おかげを頂いて一人は助かりました。私の信心不足が一人を失いました。こういうふうな頂き方をしておられる、ね。そうにお願いをしたばってん死んだ、というふうに言うちゃないです、ね。亡くなりましたには私共の信心不足だ、足りないからである。にもかかわらず、一人は助けて頂いて有難いと、わざわざ神主さんを呼んで御礼のお祭りをなさっておられます。この辺が違うところですね。皆なと。はあ、も、有り難う思うとります、と言うて思いわけのよい人はあります、いくらも。けれどもそれをね、御礼のお祭りして、その、その時、その時分の金額でお金とお米とを、お供え御礼をされておられる事が実績に残っております、ね。成程、金光教というまたとない教えの、いうならば開祖、宗祖とまあ教祖としておかげを頂かれる方だから、それはやっぱ、違いもしましょうけれども。なら私共もやっぱり、そういう心の状態を目指して頂くという事が、とりもなおさずね、研いても行かなきゃならない、美しゅうもなる稽古をしなきゃならない。その研く手立て、又は、いよいよ限りなく美しゅうならせて頂く手立てが合楽では説かれてあるのです。ですから、それを実際に実験していきよると実証が生まれて来るのです。いつのまにか自分の心の中から我情が取れて我欲が取れて、ははあ、こういう心が和賀心、和らぎ喜ぶ心だろうかという様な心が育って来るです。それを、なら何十年信心しておってもです、おかげを、おかげ頂く、おかげを頂くという事の信心だけの焦点であってはです、ねえ、いわゆる年を取るにしたがって淋しゅうならなならんです。年を取るにしたがって淋しゅうなるという事はね、それこそ、こういう有難い信心に縁を頂きながら真の道を、信心の道を行じていなかったという事になるのじゃないでしょうか、ね。それを行じて行くならば、教祖は嘘はおっしゃってないなあ、成程一年一年有り難うなって行く。一年一年これが位というものであろうかという様なものを、心に感じさせて頂いて、いよいよ心が賑やかに、豊かに有り難うなって行けれるその元という所をね、まず頂かせてもらうという信心。様々な問題がありましょう、けれどもそれを見事にパッとこう、受ける稽古がね、常日頃出来とかんならんです。野球の選手の、その修行と同じ事ね。実際を言うたら、もう一切が神愛とこう言うのですから合楽ではね。そん、わかっちゃおるけれども、それを本当に神愛でした。んなら上滝さんの場合なんかは、去年様々な事があった。そして自分の信心がそれこそ何十年ぶりに、一つの花が開く様に心の花が開いて来た。ね。それはなら、去年様々な問題があった。その問題が、なら上滝さんの心を開いたという事になる。してみると、あの難儀な問題もいうならば神愛であった、という事がわかるでしょう、ね。だからいよいよ、どんな事であっても神愛であるという、あのう、確信をもって受けられる稽古をね、日々させて頂いて、今日は私は、今日の七十五節の、まあいうなら先取的な話を聞いて頂いたんです、ね。人の心を暗くさせたり傷つけたりね、又はグサッと相手を殺してしまう様な、この、まあ勿論あってよかろうはずがない。信心させて頂く者の上に、特に合楽で稽古させて頂いてる者の上には、それがあってよかろうはずはない。どころではない。反対にそれを生かして行く、癒して行く為には自分の心自体がね、一切を神愛として受けられる様な喜ばしい心を、いつも頂けておれるような稽古を、いよいよ目指さなければならんという事になるですよ、ね。今日の御理解はそういう意味あいでです、教えを越えて教えに生きる者の生き方を、今日は聞いて頂いたつもりであります。どうぞ。